512回 (2014.10.11

河野通忠と伝柚之木谷館跡

戒 田   淳 (伊予史談会 会員)

 

1 伝柚之木谷館と湯山村

 

 歴史上河野通忠がひときわ輝いた舞台は、弘安の役で負傷した河野通有を「蒙古襲来絵詞」の中で、竹崎季長が見舞っている場面に通忠が同席していることである。

また通忠と通有との関係については、高野山上蔵院文書・河野氏系図の項に通有の長子として記録され、注釈として「柚木谷河野八郎千宝丸、母ハ江戸太郎女也、大力也、法名福生寺殿ト云、長子」と記され、大力と評されるなどあまり好意的には書かれていない。

また、河野氏研究の定説では通忠の居城のあった柚之木谷は、北条夏目の一遍上人ゆかりの熊野神社周辺になっているが、宮脇通赫氏の『伊予温故録』の「柚之木谷館跡」についての稿で、「柚之木谷館跡は湯山村に在り旧跡俗談に云う、河野通有の長男通忠居る、因りて通忠を柚之木谷殿と称す、その所今の湯谷山正福寺なりといへとも、其由来今の正福寺にも伝わらず、或人云山号を湯谷といへるは疑らくは柚之木谷を中略して湯谷と云う、又一説に往古此處朝夕湯の気たつを甚し故に土俗湯の気谷といひしを柚之木谷と書きたるなりと、また正福寺住持云、此寺を湯谷山温泉院と名付るは昔此山に湯の湧出る所あり、又麓に温泉の淵ともいふ處あり、是より水流れて郡中に達する故に温泉郡とはいふなり云々」(句読点筆者補注)と述べている。

文中の宮脇通赫氏の表現からは、文献資料というよりは土地に伝えられた伝承をまとめたもののようにも思われる。

私はこの話にヒントをもらって、湯谷山正福寺並びに隣接した神社(金比羅大権現と天神さんを合祀)周辺を実際に歩いてみた。確かに正福寺のある場所と末地区の地理的条件や風景は、中世の豪族居館の条件を限りなく揃えており、かっての住人伝承の柚之木谷殿河野通忠館跡でないとしても、ここが中世豪族屋敷であったことは間違いないと見ている。

 

注 河野氏略系図

           

     ┏ 通時  ┏ 通忠

     ┃     ┃  柚之木谷殿

通信━通久━通継━通有━通茂━通盛

  ┃        柏谷殿(通茂長子)

  ┃            通有養子

  ┗通廣━ 一遍上人

写真@ 竹崎季長『蒙古襲来絵詞』通有・季長の陣中対面図(右より三人目が通忠)

 

  湯山地区末町の位置的特徴

 

先に石手川の川筋にある萱谷にヒントを得て調べてみると、河野通有の子供達のうち次男の通茂が萱谷(柏谷)に住んで、伊台の西法寺背後の山上に勝賀山城(勝岡城)を築き柏谷殿と呼ばれていたことを知った。この件については平成二四年に「上萱谷と河野氏」のタイトルでまとめた。その後の研究で、河野氏系図・通茂の兄の柚木谷河野八郎千宝丸を知ったが、たまたま私の住んでいる地域に関する文献に当たっていて、宮脇通赫氏の『伊予温故録』に遭遇した。この文中に湯谷山正福寺が「柚之木谷館跡」であると五行程度で簡単に述べられていた。

 

早速、現地の確認と考証に行ってみたが、その景観は写真の通りである。その後正福寺と隣接する金比羅神社(菅原道真も合祀している)を何度も訪れ、此処が中世の武士の館の跡とすれば、必ず山城とセットになっていると考えてその跡を確認するために背後の急峻な山にも登ってみた。急斜面を登り切った所には狭い鏡台のような平地があり、前面南方に素晴らしい景観が開けていたが、残念ながらそこから先は湯ノ山ニュータウン造成時に破壊されており城跡遺構の確認は不可能になっていた。

写真A 金毘羅神社と正福寺遠望 

 

しかし、末町の正福寺周辺を実際に見てみると、昨今の土木技術の発達で道路や住宅建設等で以前とは土地の形状が変化しているものの、強く地理上・地形上の特徴が現れているので以下に挙げてみた。

 

@  石手川を軸にして、末町は河中方面、横谷方面、伊台方面、道後・松山平野方面の十字路に当たる。

A  背後の地形が極めて急峻で武士が防御のために館や山々を利用した砦の構築に都合がよい。さらにこの地域には南北朝の応永年間、南朝方の河中・重松城主重松太郎通里・大野次郎重直が細川頼元に破れ、柚之谷砦で討ち死にした歴史がある。

B  弟の通茂が築城した勝賀山城と峰続きで、通有が寺の再建などに尽力した西法寺と谷続きである。

C  石手川の川伝いに石手寺、道後、通有の居城のあった石井縦淵城に通じているなどの件から、末町は当時は松山地域の「へそ」に当たっていた。

 

以上の状況から末町の正福寺周辺に、通忠の居館があったという伝承が伝わっていることは決して荒唐無稽な話ではないように思える。

ただ、北条にも通忠の居城と伝えられる神途城が柚木谷(北条南中学背後の丘陵地帯)にあり、その遺構や寺の跡(福正寺)も残っており、さらに隣接して一遍上人ゆかりの熊野神社もあるので、こちらも通忠ゆかりの場所であることは疑えない。

      

私は、柚之木谷が末町と北条の二つの地域に存在することについては、通忠の活躍場所が中予地区の河野氏の勢力範囲全般に及び、おそらく末町もその位置的重要さから、二〇代の頃に数年かけて現在の玉谷町に八幡神社を建立するなど、父の通有からこの地域の経営をまかされていたのではないかと考えている。さらに柚之木谷という地名が通忠のニックネームとして定着した結果、末町にも柚之木谷伝承が残っていたのではないかと考えている。

 

写真B伝通忠建立松山市玉谷若宮八幡神社